風のない夜。

風のない夜に、ひとりで歩くのがすき。

耳鳴りがしそうなくらい、しんと静まり返った空気と、誰もいない真っ暗な道。

街灯のあかりを縫うようにぽつぽつ歩いて、自分だけの世界に浸る。

風の抵抗がないと、からだが重いような軽いような気持ちになって、わたしは自由だァ!

って叫びたくなる。

叫びたくなる気持ちを抑えて、湧き上がる幸福感を胸に携えながらうきうき歩く。

でも、風のない夜ってめったにないんですよね。

久しぶりに歩きたいな、

落ち込んで眠れなくなると、こういうの求めてしまう。

 

 

なりたい自分になるのをやめた。

わたしにはやりたいことがたくさんある。

昔から悩みごとの根っこはいつもそこにある。

そして、自分で言うのもなんだけど、なんでもそこそこレベルまではすんなり進める。

はたから見たら、なんでも挑戦できるとか才能があってすごい。と感じるみたいだけど、

謙遜でもなんでもなく、わたしは、ほんとうにそんなことないんですよ、といつも思っている。

中途半端な自分が嫌なのです。

何をやっても偽物な気がして、何をやってもほんとの自分じゃない気がして。

なぜだろう?とずっとずっと考えていて、最近やっと一つの結論にたどり着いた。

 

「なりたい自分になろうとしているから」だと。

 

わたしの場合、憧れることが原動力になることが多くて、それは良い面もたくさんあるのだけれど、憧れるが故に「憧れの自分になれていない自分」を否定する癖がついてしまっていたみたい。

かっこ悪いのは嫌だ、こんなはずじゃない、もっと素敵になれるはず、そう言い訳をして、いつまでも出し惜しみをしながらほんとうのわたしはもっとすごい。と言って、自ら中途半端な自分を作り上げていたのです。

 

よく考えてみると、たくさんのやりたいことを自分を高めるために必要。と思いながら「自分が気持ちよく浸っていられる世界」をいくつも作り、さらにそれを「現実の自分がいる世界」と分けていて、現実逃避をしているだけなのでは?と思いました。

大海の荒波に揉まれることを知らない、静かな井の中の蛙は気持ち良いですからね。

「いくつもの理想の自分」と「現実の自分」が並行して生きていて交わることができずに

いつになっても現実の自分は満たされませんでした。

現実逃避は悪いことではありませんが、今のわたしにとっては悪循環の種になっていたのです。

その悪循環から抜け出すために、結果として現実逃避になってしまったやり方を見直すことにしまして。

 

「なりたい自分になるのをやめる。」

 

というのは、夢を諦めるとか現状で満足するとか、そういう次元の話ではなくて。

なりたいな、と思って憧れるだけではなれないし、

絶対なる!ってかっこよく宣言したところで、口だけのように感じるし、なれないことへの恐れの表れのような気がして、

意識レベルの話になるのでうまく説明できないのですが、

なりたいものと自分を統合するような感覚。

「〇〇になりきる」じゃなくて「わたし」だよ、と。

そんな感覚。

が、最近やっとわかってきたような気がします。

 

という訳で、ようやく「わたし」としてちょこちょこ生きていこうと思います。